昭和49年03月10日 朝の御理解
御神訓 一、「縁談に相性を改め、見合より真の心を見合せよ、」
一、「家柄人筋を改むるより、互いに人情柄を改めよ、」
一、「子を産むは、我力で産むとは思うな、皆親神の恵む処ぞ、」
縁談に相性を改むるとか、家柄人筋とかまたは、子を産むはと出産の事取り上げての御神訓ですけども、今日はそう言う意味ではなし、どの条を頂いても、此の真の心をと言う事をね、真の心を見合わせよとか、人情柄を改めよとかというま御教えであります。勿論ですから縁談のとき、又は出産の時こういう心掛けで居られなければならないと言う事ですけれども縁談出産だけではない、もう一時が万事にこう言う心掛けでおれば有り難いと言う事なんです。ね。
結婚をするのに相性を見たり相性と言った様なものは、いわゆる問題ではないのだと、真の心と言う事は、真の心とお互い例えば信じ合うという心、又は所謂お互いの心と心を、見合わせて行く、それにはどうしても次の人情柄を改めなければなりません、家柄人筋を改むるより人情柄を改めて人情柄人情柄というのは、所謂どう言う風に頂いたら良いでしょうかね。お互い素直な物の考え方の出来れる、状態になると言う事だ思うです、そう言う何か心の状態、最後の子を産むは我が力で産むとは思うな。
皆親神の恵む処ぞと言う所など、もう一つも力身がないね、私の方は例えば士族の家柄だと、あちらはあのうお百姓の家柄だと、所謂家柄が格段の違いだ言った様なね、考え方では人間は幸せになれない百姓であろうが商人であろうがね、昔は侍であったろうがそう言う事ではない。もう本当にそうですね、それこそ百姓をして事もないとこへ、娘さんがお百姓様の家に。いわば嫁入って来るけれども本当にその娘さんが、そのお百姓の家に融け込んで来ると、結構やっぱ一門の百姓になって行かれる様に、ね。
その融け込むと言う事、所謂その気張りがないのです、子を産むにとにかく我が力で産むとは思うな、皆親神の恵む処ぞと仰るのですから、と云うて全然気張るのではない、気張らせて頂ける時に気張れというのです。ね。所謂自分の力みと言う物を捨てよと言う事です、いうならば私がという我を捨てよと言う事なんです、その所をですいわばすんなりとした心というかね、この言われた三ヶ条の所を頂いても誰でもそれを感じます、相性のどうのと言った様な事を云うたり、思うたりする事もいけないね。
真の心を見合わす人情柄を改めよ思い方を変えよ。素直に物を見聞けと言う事です。是をね堅苦しく考えたりね、それをひがんで取ったりする所にね、又は人を見下げたりする様な考えの中にです、神様のおかげそれこそすんなりとした、おかげが受けられるのに、すんなりとしたおかげになって行かんのです、俺とお前の所は家柄が違う、と言った様な例えば考え方を何時もしておると、何時も相手をいうなら見下げねなきゃならん、それではおかげがすんなりと付いて来ません。
力を入れなければならない所に入れずして、そう言う詰らん所に例えば、相性を見合わせたと言う様な所に力を入れたり、家柄一筋が違うと言う所に力を入れたりするのは、もうこんな馬鹿な骨頂と云うなら、そう言う事を言うのである。幸せないうなら、まぁその条件というか、もう初めから幸せの条件と言う物を、無視しておる様な物だ、縁談に相性をいうたりね、家柄一筋というたりする事、いわゆる最後に申しております、子を産むは我が力で産むと思うな、自分の力で出来る事はないのだから。
言うなら只漠然とぼんやりしとけ言う事じゃないのですよ。ね。もう自分の力で産むのではないのだから、皆神様のお恵み下さるのだから、その言うならば愈々出産と言う時にですね、自ずと気張らなければ居られない物を是に感ずる、私は自分が産んだ事がないから解らんけれども、そうだろうと思んですね、まあ尾籠な話しですけれども、なら大便に行ってもそうでしょうね、自ずと催しが始まって来るでしょう、気張ろうと思はんでも自ずと気張らんでおれんでしょう。
そこに言うなら快便というおかげが頂ける様なもんです。だから気張るなというから気張らんと言う事じゃないです、もうそれこそすんなりとしたね。此処に力を入れなければならないと言う時には、此処に力を入れなければ居るられない、それを信じなければ居られない様な働きと言う物がです、私共が金光大神のお取り次ぎを頂いて日々信心の稽古をしておるとね、それを実感するです日々の生活の中に、もう実にだから自然、だから自然のそう言う働きの中にですね。
今日は雨だ今日は風だと言う事もやっぱりあるんです。昨日二度目のお参りをあのう隣りの方をお導きしてから、久留米の佐田さんがお参りして見えた、もう親先生最近あのう留米支部の上にいろんな働きのあっておる、もう生き生きとした何かその本当燃える様なものを感じるのですという話しをして居られます。古賀さん処のあのう火事以来それこそ、ははぁそれを聞いてから素晴らしい事だと思うた、それこそ久留米地区にです、燃える様な物がです、燃え上がってしまう様な物が。
そしてその燃え上がってしまうと言う事な、灰になると言う事ですね、燃え上がると言う事は灰になると言う事、灰と言う事はすんなりとした心の状態、「はい」という心の状態になると言う事なんです、素晴らしい事ですね佐田さんというて話した事でした。大きく云うならば久留米地区に神様の働きが始まっておる、例えば昨日だけでも、あの笠さん所の奥さんが見えられた、あそこも一軒おいて向こうまで丁度一日の月次祭の晩に火事があってる、その時に合楽の親先生が主人にこう言う事を仰った相ですが。
いわれて見ればその通りですとこう言う、明くる日笠さん参って見えて、こちらの月次祭におかげを頂いている間に近所で火事があった。それで家内がびっくりして、してからもう右往左往して、もう大変な事だったらしい、ね。けれども帰らせて頂いたらもう、そのう消防車がもう沢山来とるけんびっくりした所が火事だった、近所はもう一杯もうさあ火事だと云うのでもう物を出したりなんかしとるもんだから。もうそれこそひちゃかめっちゃか、濡れたり壊されたり。
所が笠さん所は、こちらへ主人がお参りしとるもんですから、ほんとに主人こげん時にお神さんに参っとるもんじやけん、ち言うちからその事ばっかり言うてから右往左往してから何も出来てなかった。おかげで私どもは何一つ無疵で済んだとこういうのである、だから私が笠さんに申しました、ほんなこつねこげん時ねあんたげの家内が、あんたと一緒に信心しとれば
ああ今日は家の主人合楽にお参りさせて頂いとるから、家には絶対おかげになるという様、確信が生まれて来るだろうけれども、日頃信心の稽古をしとらんもんじゃけん、お礼を申し上げんならん時でも、うろちょろせんならん様な事だと私が笠さんにいうとったんです。それを笠さんがそのまま奥さんにいうてあるごたる風で、それで昨日佐田さんの所に来てからです、もう本当に主人が云う通りです、もう私が信心がなかもんじゃけんけど結局はおかげ頂きました。
返っておかげになりましたけれども、ああいう時あわてんで済む様な、おかげを頂いておきたいとこういうのです。それから喜代司さん達が夫婦連れで、昨日やって来ました、と言う様にそれからまあ信心話しをしたら、隣の方が見えて、とにかく今朝の御理解を、と云うてその御理解を話しよったら。もう今日にでも今にでも、その御理解を頂きたい、どうでんいっちょ連れて参ってくれ、昔参って見よったんです。佐田さん所のすぐ北側の大きな屋敷がありますね、あそこの奥さんです。
一緒にお参りして来ました、何とはなしにあのあの、古賀さん所の火事以来久留米の信者の心がこう一つになって、何か燃え上がる様なものを感じます。ははぁこりゃぁ大きく言うならば天地が古賀さんの所の、いわゆる火事と言うそれこそ燃え上がってしもうて灰になる様な、働きが久留米地区に始まったのですね、というて、有り難く話しを聞かせて貰った、もうすんなりしているでしょうが、はぁあっちは、火事が焼けて困んなさる、もうそう言う事じゃないのです。
大きく久留米の御ヒレイの為のそれなんです、その証拠には古賀さんが明くる日にはお礼に出て見えて、いうとられましたけど、不思議にその時には、私は落ち着いとった、もう家に帰った時には、燃え上がってしもとったけれどもです、只隣近所に移らん様にと言う事をお願いしようと思うて、お取り次ぎ頂いて、お願いしたのは、私自身だったとてもそういう時に、そんな例えば心が冷静でなければ、出来る事じゃないです成程燃えた、けれどもおかげで灰になったと言う事。
翌日に参って来て間違っている事に気が付きました、是からは本当の信心をしっかりさせて頂きたいと思と所です。古賀さん所の火事のあってから、この方こっち組内の方は、勿論ですけど、毎日二十名づつ位、毎日お届けがあるです、古賀さん所へ、復興を願はれる再建を願はれる、願われての事なんです、信心ちゃ有り難い、信心友達ちゃ有り難い、そう云う強烈な祈りの中にです、言わばすんなりと、おかげが頂ける。先日も改まってお礼参拝に見えた時にもう兎に角その後先の事をおもやぁ思うほど。
おかげと思はにゃ居られん事ばっかり、だと不幸にして私共には火災保険やら掛かってませんでしたけど、もう例えば後すぐ建築なら建築に取り掛からせて頂かなければならないでしょうけれどもです。もう例えばその銀行関係の話しなんかのスムーズにこう行く事、とにかく待ってましたといわんばかりの、働きが次々と感じられるとこういうわけです。こりゃ困った事だ悲しい事だ。信心しょってどうした事じゃろうかと言った様なものはなく。実にそれこそもう力まずにすんなりと。
より立派なものが、より大きなものが出来る様な感じです、だからそういう信心に便乗して行く、便乗と言う事は、素晴らしい感じです、調子に乗ると言う事ですから、乗り過ぎるとやりそこなうけれど、調子には乗らなければいけません、調子に乗りますと、言わば出らん声でも出るです。いうならば陰のさん三線にのせられてと言う様なというでしょう、あの相方なら相方という、一つのリズムに乗って、事が運ばれて行くのですからこんなに素晴らしい事はない。
それは楽と云う意味じゃないです、雨の時にはやっぱりしるしい、風のときにはやっぱりひどい、けどそれが力まずしてもう力まなければ居られない物を、が生まれて来ると言う事です、只腕挫ぬいて誰か家建てて呉れるじゃろうかと言う事が、なら古賀さんの場合でもある筈がありません。けれどもね、もう力まないで得られない様なその働きに乗って、おかげを頂いていく、是は久留米地区にいよいよ燃え上がる様な御ヒレイが輝くなと、いう風に感じさせて貰うた。
久留米地区の方達が、それこそはいになっておかげを頂いたら。私が何時も言う様に、もし現在合楽に沢山の財産があったり、家蔵財産がいわばあるとするならね、その全てが私のはいという、信心から生まれたんだと、いっております。そうです神様の前に、私がどんな場合であっても、はいというて来たのから今日の合楽のが生まれて来たのです、自分の都合のよか事は、はいというけれども、都合の悪か事は事はいやですよというそげな恥ずかしい事は困りますとはいはなかった。
どんな恥ずかしい事でもそれは血の涙の出る様な事があってもです、泣く泣くでも矢張りはいというて来たんです。だからここにその合楽が生まれて来たんです、それもです、矢張りどうしてそのはいといえたかというとです、そういう一つの力まざる力みを持って来たからなんです、そこにはね何ともいえん、神様のそういう働きがあるんです。昨日丁度四時の御祈念の前でしたから、私の話しを聞いて貰うた、それこそ昨日の御理解を聞かせて下さる、そこに何人かお参りがあっとりましたから。
皆一緒に聞いておられました、そして私が四時になって、御祈念さして貰う、皆さんはそれぞれずうっと帰ってしまう。帰ってしもうたけれども、佐田さんとその池内さんというんですけれど、お二人が何かこう未だ坐っとられる。帰えられん、ま少し何か頂かにゃという感じなんですよ、だからこちらへお出でというて、また話しさせて貰うた、そこで八女から石橋さん達母子で参って見えた、初めて娘さんが今度八女高校ですか、一日が入学試験だからと云う、お願いに見えた。
そして私はお届けをさして頂いてから、驚いた、池内さんの名前が池内希三子というのです、希三の希というのはまれという字です、希望の希ですちよっと見てご覧て、私は何時もお届けさして頂いてから思う事は、実感する事はね、あんた達が今日は佐田さんの奥さんに言うなら導かれたというて参って来たというて参って来たと思よるばってん、参らせて頂いとるとばいというて、他の例を私は此処で見せて、こういう風に間違いのないいうなら、お参りの順序だって、参って来るとじゃない。
神様が差し向けて御座るのであり、参らせて頂いておるのであるから、私もね確信を以て、おかげが頂かれる、おかげを取次ぐ事が出来るという確信が持てて、お取り次ぎが出来るんだから、皆さんもおかげが頂かれると、確信してお取り次ぎ頂かなっければいけませんよと、いうて話した事です。ね。こんなにも間違いのない、いうならばすんなりとした自然の働きの中に、お参りさせて頂いとるとですよね、いうならば神様が差し向けて下さったんじゃから。
私もですねおかげが頂けん筈がないという、確信を以てお取り次ぎが出来るのですよという訳です。ね。子を産むは我力で生むと思うな皆親神の恵む所ぞと。信者は自分の信心で自分が育てるとか自分がこうするとじゃない、皆親神の恵む所なんだ皆親神様のそう言う自然の働きに催されてお参りをして来るのだ、ね。それを理屈じゃない実感として私此処で感ずるからね、はいおかげになりますよと確信していへれるのだ、だからお取り次ぎを頂く者もまた確信を以てお取り次ぎを願はねばならんと言う事、ね。
其処には所謂自ずと力が入って来る、確信する力なんですね、自ずと確信に力が湧く様に心の中から感じられる、もううそれこそ何ともいへん、そうした自然の働きの中にいわゆる恵まれて、恵まれる力が生まれて来る。其処から産み成される所の物が本当のおかげである、だから「ふ」が良かったという風にはいわれん、又同時に「ふ」が悪かったとも云はれん、一切が神様の御都合だと言う頂き方が出来るのだ。あれは「ふ」が良かったとか、あれは「ふ」が悪かったとか、言う事があろう筈がない。
信心させて頂きよってね、神様の御都合として、其処ん所をいうならばね、今迄例えば力が抜けておった物がです、そういう間違いのない働きを受ける所から自ずと、いうならば力が生まれて来る、いはば産みなす時に、産みなす力が恵まれる様なものだ。それをなら中途半端な所でですね幾ら頑張ったちゃきばったっちゃ、産まれない時に、さぁ頑張んなさい頑張んなさいと言われてから、頑張ったっちゃ産まれるはずがない。ね。それこそ苦しい言うならば産み方をしなければならん、ね。
開腹手術やらで産まれたんじゃいけないでしょう。ね。それこそ自然にね神乍に力まずに、力まんならん時には力ませて頂いての、もうそれこそね、内の家内じゃないけれども子供を産む時には、却って快感を感ずる様な、スムーズな産みなし方が出来ると、それには常日頃からのチャンと信心が出来とるからね。おかしな話しです。あぁ子供を宿ったと云うたら大事にしようが違う、自分の力でばし産むごと、自分の力でばしその子供が出来た様にある、もう恵まれてのですから。
だからその私は実感を以て、おかげを頂かして貰うならばですね、大事にせにゃならん所を、所謂信心の真の帯を次の所はね、懐妊の時腹帯をするより、心に真の帯をせよと。懐妊したら愈信心の真の帯をぴしっと、締めておるから、いはば出産の時に、それこそアラッと言う様なね、隣り知らずの、安産が受けられるのです、それは大事にせよというて、もう動きもせんじゃけん。
愈の時にはそれこそ人工的な出産と言った様な結果にもなりかねないね、愈の時さぁ誰れにも頼まんならん彼にも頼まんならん事じゃない自然と頼むというても、相手の方からですいうならば周囲の方から集まって来る方達によって、それがなされて行くと言った様なですスムーズな働き。今日は私は皆さんにね、もちっとすんなりとした信心をさして貰はなければいけない。
其処にはスンナリしなければおられない、神様の働きが始まる、だから愈々其処に確信を以てです、此処は力まんならん此処は力まんでん、無駄な力だと言う事が解って来る、お互いの真のこころいわゆる真の心を見合わせよと、人情柄を改めよとこう言う、と言う所をです、も少し私共も少しもっともっとです、すんなりとした物の見方、考え方が出来れるおかげ。それを例えば神様の御都合と受け。
神様のおかげと受けられる信心を頂きたい、神様の御都合と言う事は、もうそれは私共の知る由のない程しに広い深い事なんだ、だから只心の中にゃ困ったといい乍ら、神様の御都合でしょうというとるから、有り難味も何ぁんにも湧いちゃこん、解りませんそれは私共には解りませんけれども、神様のお恵みに働きには違いはないというのか、神様の御都合と言う事なんだね。神様の御都合として、頂けれる一切を常日頃のそれをそう受けられる、信心をしておかねばいけないと言う事です。
どうぞ。